高速道路の大回り走行についての考察
この記事は、規則にしたがって、高速道路をできるだけ安い料金で、できるだけ長い距離走行すること(以下「大回り走行」とする)に関する考察です。
「周回走行」について
周回走行(入口ICから出口ICまでの走行経路で重複が生じる走行(迂回により走行距離が入口ICから出口ICまでの最短経路の距離の2倍を超える走行も含む))
周回走行や迂回走行をされた場合は、連続した走行であっても、流入したICから流出するICまでの間に周回走行を含む場合は、流入したICから周回して重複する地点に戻るまでを1回の走行とみなし、それぞれの経路ごとに料金を計算した合算額をいただくことになります。
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走行経路に重複が生じる「周回走行」をすると、実際に走行した経路の通行料金を支払う必要がある。また、「迂回により走行距離が入口ICから出口ICまでの最短経路の距離の2倍を超える走行」も、周回走行と同様に処理される。ここではこの走行を「迂回走行」とする。
「迂回走行」について
入口ICから出口ICまで複数の経路があり、どちらの経路も途中で料金が精算されない場合、ご利用される経路の距離が、最も距離の短い経路の2倍以内の場合は最も安い経路にしたがって計算した料金を、2倍を越える場合はご利用される経路の料金をいただくことになります。
「迂回走行」となるのは、入口ICから出口ICまでの最短経路の距離の2倍を超える経路を走行した場合であり、実際に走行した経路の通行料金を支払う必要がある。
つまり、「大回り走行」をするためには、「周回走行」「迂回走行」に該当しないことが前提となる。最短経路の2倍ルールの制限によって、1区間、十数キロぶんの料金で長い距離を走行するのはなかなか困難である。しかし、首都圏エリアでは、最短経路の2倍ルールの例外が設けられている。
圏央道の内側に関する例外
都心部の渋滞等の課題に対して、圏央道や外環道の利用を促すために、ETC車の場合、出発地から目的地まで、どの経路でご利用いただいても、起終点間の最短距離の料金となります。(当面は料金体系の整理・統一における激変緩和措置を考慮し、最安値とします。)
ただし、首都高速経由の料金の方が高い場合には、首都高速経由で走行しても料金は引下げません。(走行経路どおりの料金になります。)
この料金設定のねらいは、首都高から圏央道、外環道経由へ通行量をシフトさせ、都心部の通行量をおさえることだと考えられる。2016年4月1日から適用になったもので、それまでは、外環道、首都高が均一料金による異なる料金体系をとっていたため、都心をまたいだ移動の際、首都高経由のほうが安くなる場合があった。しかしこの料金体系になって以降、圏央道以内であればどのルートをとっても、最安料金で通行できるようになった。(首都高経由の場合は最安でない場合あり。)
ここで、「出発地から目的地まで、どの経路でご利用いただいても、起終点間の最短距離の料金となります。」とあることから、「最短距離の2倍ルール」は圏央道の内側では適用されないはずである。
なお、注意事項として以下の点があげられている。
- 外環、首都高、京葉道路の出入口を入口IC、出口ICにすることはできない
- 京葉道路を走行してはならない
- 京葉道路、アクアライン経由のルートは最安料金としない。
- 走行方向に制限があるインターチェンジは、走行方向に応じた料金となる
ここからは、具体的な事例をもとに検討してみたい。
所沢IC→関越道(8.6km)→大泉JCT→外環道(49.2km)→高谷JCT→東関東道(56.6km)→大栄JCT→圏央道(119.7km)→鶴ヶ島JCT→関越道(6.6km)→川越IC
外環道を含む例外
外環道を通過するルートで迂回・大回り走行をした際,最短ルートの2倍を超えているかの勘案が外環道と他のNEXCO管内道路との接続地点で一度途切れるという処理がなされるようです。具体的には,最短ルートの勘案が「入口→外環道に入る接続地点」,「外環道に入った接続地点→外環道を出る接続地点」,「外環道を出た接続地点→出口」と,3回行われるということになります。この3回それぞれでの最短ルートの距離の2倍までというルールを順守すると,入口→出口の最短ルート料金のみの徴収となります
ゆえに、①~③すべてが条件を満たすため、特例が適用され、640円で済むはずである。
本記事は、以下のnyanta氏の記事を読み、関係各所の情報を参考にしながら、私なりに整理したものである。公式の情報がない部分もあり、推測で書いている部分も多いので、コメント等で指摘をいただければ幸いである。とくに外環道特例に関しての説明が詳しく、参考にさせていただいた。
ロッテルダム チャイナタウン/spidoクルーズ
マルクトハルから北へ伸びる通りでは,朝市が開催されていた。旅行者の手前,生魚や生肉の購入ははばかられるので,見るだけにした。
およそ地図に示したあたりが,中国系を中心としたエスニックタウンになっている。
「唐人街」と表記がある。
スーパーマーケット「華南行」。マルクトハルにも店舗があった。
初期の中国系移民が床屋などの技術職をしていたということを示すように,中国系の床屋がみられた。
その後,チャイナタウンを離れ,エラスムス橋の方面へ向かった。途中,スリナム料理店を多く見かけた。旧植民地であったスリナム系の人々も多いようである。
エラスムス橋の近くから,ロッテルダム港クルーズ「spido」に乗船した。前の日の夕方に乗りたかったのだが,あいにく完売しており,翌日の11時の便のチケットを購入した。
満員となった船には,家族連れの客が多かった。デッキに出ることもできたが,12月暮れではさすがに寒く,ずっとデッキにはいられなかった。内部には6人掛けほどのテーブルがたくさん並べられていた。窓側に一人で座ったが,後ほど家族連れがやってきた。
クルーズ中は,オランダ語と英語で案内の放送がかかる。世界各地から運ばれてきた,もしくはこれから運ばれるコンテナはとても迫力があった。
このあとは,ロッテルダム中央駅から,デルフト,ハーグに立ち寄って,夜までにアムステルダムへ向かう。
つづく
ロッテルダム キュービックハウス/ユーロマスト/マルクトハル【ヨーロッパ旅行④】
ロッテルダムの中心繁華街。奥に見えるのはロッテルダム市役所。ロッテルダムは,地下鉄も通っているが,中心部は歩きで移動できてしまう。
キューブハウス。中がホステルになっているので,泊まることにした。宿の入り口がすこしわかりにくく,橋を介して海側のほうにあった。清潔だったが,すこし慣れないにおいがした。
キューブハウスから歩いてユーロマスト方面に向かう。途中,いかにも西洋風なきっちり設計された迷路のような庭があった。
ユーロマストは入り口が混雑していたが,せっかくなので15分ばかり並んで入場した。クレジットカードしか使えなかった。
大型のコンテナ船もライン川をドイツ方面に遡上している様子が見える。
夕食を求めて,屋内市場のマルクトハルへ向かった。ガラス窓で,内部に壁画が描かれている。
日本料理,中華料理,バル風の海鮮料理店などいくつかの店をあたって,結局マレー料理のサテーを食べた。マレーシアで食べたものよりもピーナツソースが甘かった気がする。10ユーロほどした。
その後は中心繁華街を散策。サッカーチームのフェイエノールトはロッテルダムがホームタウン。川の対岸にスタジアムがある。
ライトアップされたロッテルダム市役所。
ヨーロッパ旅行③ CDG空港とThalysでロッテルダムへ
午前6時前にパリに到着し、イミグレーションを抜けた後は、11時19分発のタリス9933でロッテルダムへ向かうことにした。タリスの料金は空席による変動制で、事前に購入した際、ほかの便はすべて60ユーロを超えるなか、この便だけ35ユーロで買えた。急ぎでもないので、これでよしとした。
ちなみに、パリ・ディズニーランド最寄駅のマルヌ=ラ=ヴァレ=シェシー駅(MARNE-LA-VALLÉE-CHESSY)始発のアムステルダム行きがCDGを通るタリスになる。パリの北方面への中心駅であるパリ北駅(PARIS-NORD)発着のメイン系統とは別である。
さて,7時には入国し,11時過ぎまで時間があった。簡単な朝食を出発ロビーのマクドナルドですませた。これで3ユーロはちょっと高い…
時間があったので,空港を端から端まで歩いてみた。アフリカ便も多く,旧植民地便の多さを実感。日本の空港ではおよそ見られない行き先や機材が見られた。
CDGのターミナルについて調べたところ,ターミナル2はA~Gに分かれていて,その中でもさらに主な長距離路線の発着するEはK,L,Mの3つに分かれていて、Kが本館、L,Mが電車に乗らないと到達できない離れになっている,という構造のよう。
エスカレーターを降りるとすぐに駅。
便名と乗車位置を案内する表示があった。
アムステルダム中央駅行き。
私の体格の問題と,隣にも似たような体格の人が座っていたため,狭く感じた。
フランス北部はこのような車窓が続く。
ロッテルダム中央駅に到着。
つづく
ヨーロッパ旅行②エールフランスAF111搭乗記
静岡からの中国東方航空便で上海浦東に到着。6時間のトランジット。帰りに上海に1日滞在するように予定を組んでいたので,とくに中国には入国せず,制限エリア内で過ごした。
PVGはこれまでに何度も来ましたが,広いだけであまりおもしろいものがないような気がする。ラウンジに行くとかしなければ,長時間のトランジットにはあまり向かないように思われる。ただ,だだっ広くて,使っていないゲートの近くのイスは使い放題で寝られるし,コンセントも使える。
AF111便はA380を使用する便だった。すべて中国東方航空でそろえるよりも運賃が少し高くなるが,まもなく退役という報道もありましたから,あえてこの便を選んだ。
AF111便は,搭乗者をグループ1からグループ5に分けて,グループごとに搭乗する形式が取られた。私はグループ5だった。(ブッキングクラスでグループ分けされているようである。)
最安ブッキングクラスだが,アッパーデッキを指定できたので,わざわざ1階から乗って機内の階段で2階へ向かった。
エコノミー席。ブランケット,枕,アイマスク,ヘッドホンが備え付けられていた。(私の体格が大きいということも当然あるが)座ってみると,思いのほか狭く感じる。
機内食。たしか2種類選択肢があり,私はフレンチを選択した。飲み物は。JALはプレエコ以上でないとシャンパンを選べないので,エコノミーでもシャンパンを選べるのは,エールフランスの特徴であるといえそう。
隣は若いフランス人女性は,機内食は食べないので,CAが来たらいらないと伝えてほしい,と私に告げ,到着までずっと寝ていた。
機内食が終わり,回ってきたCAにすすめられたコニャックを飲んだところ,酔いがまわってそのまま寝てしまう。
着陸前に朝食が出た。これは選択式ではなく,全員同じものが配られる。フレンチトースト,飲み物にはホットチョコレートをもらった。
ゲートを出たところで渋滞した。イミグレーション職員がパスポートチェックを行っているようだった。イミグレーションの混雑を避ける目的なのか…?
その後,1時間ほど並んで入国審査を通過。事前にamazonでorangeのSIMカードを購入しておいたので,入国審査を待っている間にセットアップをすませる。
この後は,タリスでロッテルダムへ向かった。
つづく
中国東方航空 MU2020 搭乗記
2019年末から2020年にかけて,アムステルダム,パリをメインにヨーロッパに行ってきた記録です。
利用区間は以下の通り。
12/26 MU2020 静岡(FSZ)-上海浦東(PVG)
12/27 AF111上海(PVG)-パリ(CDG)
1/2 MU554 パリ(CDG)-上海(PVG)
1/4 MU2019上海(PVG)-静岡(FSZ)
10月はじめにexpedia.com(エクスペディアの米国サイト)にて$641.7で購入。年末年始でこの値段であればまあまあです。
静岡空港のチェックインカウンター。
グランドハンドリング委託先はおそらくFDA。ノートパソコンで搭乗手続きが行われます。搭乗券はパリまで通しで受け取りました。
保安検査,出国審査後の制限エリア。
免税店と奥に見えるセブンイレブンがあります。
搭乗便はMU2020。機材はA321。
シートモニターはありません。機内数カ所に設置されているテレビでは中国映画が放映されています。
私は隣の席に座っていた中国人男性とたまたま話が合い,上海まで会話していました。彼は静岡県内の工場で働いていて,年末休暇で中国に帰省するところだったそうです。どうやら観光客だけでなく,地方在住の中国人の利用も多いようです。
機内食です。真ん中の紫色のカップはぜんざいのような食べ物です。食べ物は和食風ですがカップ水が中国産なので,機内食が静岡搭載なのか,それとも上海から積んできたのかが不明です。(以前羽田発のMUはすべて日本語パッケージだったので羽田搭載だったと記憶しています)
夜のPVGに着陸。PVGのライトの色加減がどことなく異国の空港を感じさせて,とても好きです。
PVGではターミナル1のサテライトに到着しました。
サテライトどうしの乗り継ぎの時は,サテライトのトランスファーカウンターへ,本館への乗り継ぎは電車に乗って,本館のトランスファーカウンターへ行きます。
乗り継ぎは,中国に入国する必要はありませんが,イミグレーション職員による入国審査のような形式をとったパスポートチェックを通る必要があります。
つづく
パリ・チャイナタウンの成り立ち
2019年の年末,パリへ行った。パリにはヨーロッパ最大ともいわれるチャイナタウンがある。これらの地区の成り立ちをほどよくアカデミックに,個人的な備忘録もかねて,簡単にまとめておくことにする。
パリ13区にあるマクドナルド
まず,フランスにいる華人のルーツは,浙江省温州周辺から直接フランスへ渡った人々と,中国本土からベトナム,ラオス,カンボジアの旧フランス領インドシナへ移民し,政情不安に伴って難民としてフランスへ渡った人々の2つに大別される。
19世紀末から20世紀初めにかけて,中国国内は,日清戦争や義和団事件,辛亥革命などがおこり,きわめて不安定な状況となっていた。とくに貧しい地域であった温州では,海外へ渡る人たちが増加し,第一次世界大戦下の労働力不足によって外国人労働者を多く受け入れていたフランスへ渡る人も少なくなかった。また,1920年代初頭,フランスで働きながら学ぶ「留仏勤工倹学」の制度が定められ,多くの中国人留学生がフランスへ渡った。留学生のなかには,周恩来や鄧小平が含まれていた。このようにして,フランスで暮らす中国人が増加し,集住がみられるようになり,チャイナタウンの基礎ができあがった。
1960年代から70年代にかけて,フランス領インドシナから多くの華人が流入した。1887年に成立したフランス領インドシナには,中国本土から多くの移民が流入していた。1954年にフランス領インドシナが崩壊すると,ベトナムではベトナム戦争,カンボジアではポル・ポトによる恐怖政治,ラオスでは内戦がそれぞれ起こった。こうした政情不安から,難民となった華人たちは旧宗主国であるフランスへ移住することになったのである。
また,1949年の中華人民共和国成立以降,中国では国民の出国が厳しく管理されていたが,1978年の改革開放政策で比較的自由に出国できるようになったことを機に,華人は世界各地へ移動するようになった。近年の移民には,中国東北部の出身者が多く見られる特徴がある。(これはパリに限らず,世界各地の華人にみられることである)
13区,20区,3区に「チャイナタウン」があるが,それぞれ,華人が流入した時期や華人の出身地,職業などに特徴がみられるので,別記事で扱う。
【参考】
清岡智比古(2011)『エキゾチック・パリ案内』平凡社新書,pp163-214.
山下清海(2019)『世界のチャイナタウンの形成と変容――フィールドワークから華人社会を探究する』明石書店,pp.123-141.