Pinguinus’s diary

旅行の記録を気が向いたときに載せています

パリ・チャイナタウンの成り立ち

 2019年の年末,パリへ行った。パリにはヨーロッパ最大ともいわれるチャイナタウンがある。これらの地区の成り立ちをほどよくアカデミックに,個人的な備忘録もかねて,簡単にまとめておくことにする。

 

パリ13区にあるマクドナルド

 

 まず,フランスにいる華人のルーツは,浙江省温州周辺から直接フランスへ渡った人々と,中国本土からベトナムラオスカンボジアの旧フランス領インドシナへ移民し,政情不安に伴って難民としてフランスへ渡った人々の2つに大別される。

 

 19世紀末から20世紀初めにかけて,中国国内は,日清戦争義和団事件辛亥革命などがおこり,きわめて不安定な状況となっていた。とくに貧しい地域であった温州では,海外へ渡る人たちが増加し,第一次世界大戦下の労働力不足によって外国人労働者を多く受け入れていたフランスへ渡る人も少なくなかった。また,1920年代初頭,フランスで働きながら学ぶ「留仏勤工倹学」の制度が定められ,多くの中国人留学生がフランスへ渡った。留学生のなかには,周恩来や鄧小平が含まれていた。このようにして,フランスで暮らす中国人が増加し,集住がみられるようになり,チャイナタウンの基礎ができあがった。

 

 1960年代から70年代にかけて,フランス領インドシナから多くの華人流入した。1887年に成立したフランス領インドシナには,中国本土から多くの移民が流入していた。1954年にフランス領インドシナが崩壊すると,ベトナムではベトナム戦争カンボジアではポル・ポトによる恐怖政治,ラオスでは内戦がそれぞれ起こった。こうした政情不安から,難民となった華人たちは旧宗主国であるフランスへ移住することになったのである。

 また,1949年の中華人民共和国成立以降,中国では国民の出国が厳しく管理されていたが,1978年の改革開放政策で比較的自由に出国できるようになったことを機に,華人は世界各地へ移動するようになった。近年の移民には,中国東北部の出身者が多く見られる特徴がある。(これはパリに限らず,世界各地の華人にみられることである)

 

 13区,20区,3区に「チャイナタウン」があるが,それぞれ,華人流入した時期や華人の出身地,職業などに特徴がみられるので,別記事で扱う。

 

【参考】

清岡智比古(2011)『エキゾチック・パリ案内』平凡社新書,pp163-214.

山下清海(2019)『世界のチャイナタウンの形成と変容――フィールドワークから華人社会を探究する』明石書店,pp.123-141.